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「我は有て在る者なり」存在原因の神は誰がつくった?

BS NOTE

キリスト教の神は、すべての始まりであるとされていますが、それは誰が作ったの?どう生まれたの?

目次

神は誰が造ったのか?

「神は誰が造ったのか?」という問いは、神も宇宙の中にある“造られた存在”の一つだと仮定した質問です。しかし聖書が語る神は、その前提に当てはまりません。

聖書の神は「造られた存在」ではない

聖書では、神は「存在し始めた方」ではなく、永遠から永遠まで存在しておられる方として描かれています。

「山々が生まれる前から、地と世界をあなたが生み出す前から、とこしえからとこしえまで、あなたは神です。」― 詩篇90:2

また神はモーセに、

「我は有て在る者なり」― 出エジプト記3:14(文語訳)

とご自身を示されました。

つまり、被造物については「これは何によって存在するようになったのか」と問えます。しかし神については、神ご自身が存在の原因を外部に必要としない、というのが聖書の理解です。神学ではこれを「神の自存性」と呼びます。

「すべてのものには原因がある」という意味ではない

重要なのは、キリスト教が

「すべてのものには原因がある。だから神が原因である」

と主張しているわけではない、という点です。

もし「すべてのものには原因が必要だ」と言ってしまえば、当然「では神の原因は何なのか?」という疑問が出てきます。

より正確には、

「存在し始めたもの、あるいは存在を他のものに依存しているものには原因が必要である。しかし神は存在し始めた方ではなく、永遠に自存している」

という考え方です。

「造られたもの」と神の違い

ヨハネの福音書も、この区別をかなり明確にしています。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」― ヨハネ1:3

つまり、

  • 造られたもの → 神によって存在する
  • 神 → 造られたものではない

という構造です。

「始まりのない神」は理解しにくくないのか?

ただし、「では、永遠に存在する神なんて理解できない」という疑問は残ります。これはもっともです。

私たちは、時間の中で「始まり」と「終わり」を持つものしかほとんど経験しないため、始まりのない存在を直感的に理解するのは難しいからです。

しかし、「理解しにくい」ということと、「論理的に不可能」ということは別です。

では、なぜ何かが存在しているのか?

この問いをさらに突き詰めていくと、最終的には、

「なぜ何もないのではなく、何かが存在しているのか」

という問いになります。

聖書の答えは、

すべての被造物の存在理由をたどっていった先に、さらに原因を必要とする存在がいるのではなく、存在そのものを他に依存しない永遠の神がおられる

というものです。

短く答えるなら

キリスト教の神は「最初に誰かに造られた存在」ではありません。聖書では、神は時間や宇宙そのものを造った、始まりのない永遠の存在とされています。

ですから「神を誰が造ったのか」という問いは、聖書の神の定義からすると、「造られていない方を誰が造ったのか」と尋ねることになります。

これは神だけを都合よく例外扱いしているのではなく、「すべてに原因が必要」という主張ではなく、「存在し始めたものには原因が必要」という考え方だからです。

さらに一歩踏み込むなら、この問いは実はかなり重要で、「では宇宙そのものは、なぜ存在するのか?」という神の存在論証につながっていく質問でもあります。

補足:科学的な観点からはどう考えられるか

科学的な立場からは、「宇宙に始まりがあるとしても、その原因がキリスト教の神であるとは科学的には証明できない」という反論があります。

また、観測や実験によって確認することのできない「永遠に存在する神」を宇宙の原因として考えること自体、科学の扱える範囲を超えている、と考えることもできます。

ただし、ここで注意したいのは、科学が「神は存在しない」と証明したわけではないという点です。

科学は基本的に、観測や実験によって検証できる現象を扱います。そのため、宇宙を超えた存在や、時間そのものの外側にある存在については、科学の方法だけで存在・不存在を判断することは困難です。

さらに、

「なぜ宇宙そのものが存在しているのか」

という問いは、物理学だけではなく、哲学や形而上学にも関わる問題です。

そのため、両者の立場を簡潔に整理すると、次のようになります。

  • キリスト教の立場:宇宙や時間を含むすべての被造物の究極的な原因として、自ら存在する永遠の神を考える。
  • 科学の立場:観測可能な宇宙の仕組みや変化について研究することはできるが、その外側にある究極的な原因については、科学的方法だけでは判断できない。

したがって、「神を誰が造ったのか」という問いに対するキリスト教の回答と科学は、必ずしも単純に矛盾するものではありません。科学が主に「宇宙はどのように成り立っているのか」を研究するのに対して、キリスト教や哲学は「そもそもなぜ宇宙が存在するのか」という、さらに根本的な問いを扱っていると考えることもできます。

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この記事を書いた人

40才で聖書の神を信じた男性47才。子ども時代に教会学校に通うも信じられず、キリスト教を嫌いになる。その他の宗教や哲学を通して生きる意味を探る。その後改めて聖書に出会い信仰を持つに至る。

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